人魚のはなし-その2:小川未明の人魚
人魚を好きになったきっかけのはなし、その2。
小川未明の「赤い蝋燭と人魚」を初めて読んだのは、小学校の図書室だった。
大人になってからも小川未明の短編集を読んだが、この話がいちばん好きだ。誰も幸せになれない。
冷たくて青い海を眺めるお母さん人魚の孤独な背中、「人間は賢く愛情に満ちた生き物と聞くので、こんな海にいるよりも人間に育ててもらったほうが娘はきっと幸せになれるに違いない」と思ったお母さんの決断から話がはじまる。
運よく、やさしいおじいさんとおばあさんに拾ってもらえた人魚の娘はすくすくと育っていく。おじいさんは、お宮にお参りに来る人たち相手に蝋燭を売って生計を立てているのだけれど、娘はその蝋燭に筆でじょうずに絵を描いた。娘の絵付きの蝋燭は、漁師や町の人の間でありがたいお守りとして大変よく売れた。育ててもらっていることに感謝して、手が痛くなっても疲れても描き続ける娘がいじらしい。平和な日々が過ぎるけれど、ページが進むにつれてなんだか雲行きが怪しくなってくる。
見世物をしている商人が娘の噂を聞きつけてやってくる。娘をかわいがり大切に育ててくれていたはずのおじいさんとおばあさんは、やがてお金に目がくらんで、しつこく来る商人に娘を売ることを決めてしまう。 売られていく直前まで蝋燭に絵を描いていた娘は、おじいさんとおばあさんに急かされて残りの蝋燭をすべて真っ赤に塗ってしまう。
娘がいなくなってからのある夜中、髪の濡れた妙な女がおじいさんとおばあさんの家にやってきて、真っ赤な蝋燭を買っていく。しかも貝殻で。
それからは、お宮に蝋燭が灯ると海が荒れて事故が起きたりよくないことが起きてしまい、最終的にこの小さな町自体が滅びてしまう。
人間を自分より高等な生き物だと信じ、大切な娘を想ったお母さんの気持ちを叩き切るような、おじいさんとおばあさんの決断。
娘が置いていった真っ赤に塗られた蝋燭は、なんだか悲しいよりもこわい。
夜中にやってきたお母さんはどんな顔をして蝋燭を買っていったのだろう。すごくこわい。
娘を乗せた船は嵐で転覆したかもしれない。仮に娘が海に戻れても、顔も知らぬお母さんと会えるとは思えない。娘からしたら本当のお母さんに対しては「捨てられた」と感じるだろうし、あんなにやさしくしてくれた人間は二度と信じられない憎しみの対象にしかならないので、真っ黒い気持ちを抱えて生きていくだろう。
日本人らしい「恨んで怨んで悲しくて許せない」という、いわゆる『怨念』を感じさせるラストだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー余談ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海外の幽霊はどちらかというとモンスターに近く、なんだかそこまで感情移入もできないためあまり怖くない。
日本の幽霊がこわいのは『怨念』のせいだ。ジメジメと「恨んで怨んで悲しくて、あきらめきれない。死んでもぜったい許さない」。こういう気持ちがあると『成仏』できなくて幽霊になるというパターンだ。日本人にはこの思考が根付いているので、感情移入ができるせいで怖いと感じる。こどもの頃に触れる”初めての怖い話”から、既に怖い対象は怨念幽霊だ。
いやなことをされた、言われた→なんらかの理由があって受け身のまま亡くなってしまった。→自分だけこんな目に合うなんて絶対に許せないし死にきれない。→復讐する、末代まで呪う。
ときどきわからなかったのは、まったく関係ない相手にとばっちりが来たりすること。例えば、事故物件に住んだ人は本来そこで亡くなった人から恨まれるべき相手ではない。 これに関しては、もうジメジメの感情が大きすぎて「幸せそうな生きている人間が許せない!」になってしまっているのではないかと思う。
・・・非常にネチネチしていると思う。でも、よくわかる。だいぶ前から、いま死んだりすると幽霊になってしまうなぁ、と思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あまり関係ないけれど、この話を読んでいると、かぐや姫を所々で思い出す。
・拾われっこであり、おじいさんとおばあさんの本当のこどもではない。
・竹から生まれたり、下半身が足ではなく尾びれだったりして、最初から人間ではないことが明らか。
・人外ゆえの美しさ。
・本人が、月や海を想っては「自分は本来ここにいるべきではないような・・。」とザワザワした気持ちを抱えている。
・不老不死のにおいがする。(かぐや姫がおじいさんとおばあさんに渡した不死の薬。食べると不死になると噂される人魚の肉。)
・もっとここにいたいのにいられない。
など。竹取物語にもいろいろと思うところがあるので、そのうち書きたい。
人魚というと、必ずアンデルセンの人魚姫と、この人魚を思い浮かべる。どちらも、キッとして気の強そうな、だけど少し悲しそうな瞳をしていると思う。とても好き。
コメント